金言金行集 |
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2021年11月19日 |
馬鹿の至誠 むかし、石州に馬鹿の至誠さむ(さん)と言はれた 篤信の人が居つた。 年を取つてから「阿彌陀経」 を覚えやうと習つたが、三年かかつても讀むこ とが出来ぬほどの馬鹿であつた。 しかしながら 佛のお慈悲を感ずることは甚(はなは)だ深かつ た。 あるとき寺へ説教を聞きに参詣(さんけい)して 居(お)つたが、高座の下にじつと聞いて居つた。 やがて説教が終つてから、阿彌陀佛の前へ行つ て、兩手を合せて 「馬鹿だ馬鹿だ」 と言ひ 續(つづ)けて居る。 これを見た他の同行達は「あのやうな馬鹿者でも、 人から馬鹿だと言はれると腹が立つらしい」 と話 合つた。 その内、一人の同行が至誠さむ(さん)の側へ 寄つて 「至誠さむ、何が馬鹿だといふのですか」と 尋ねた。 さうすると、至誠さむは両眼に嬉し涙を たたへて 「阿彌陀様だ。 馬鹿な阿彌陀様だ。このやうな 馬鹿な私を助けなければ気のすまぬ阿彌陀様は よつぽど馬鹿だ」 と言つて泣いた。 全く自力のはからひを捨てて佛の本願に信頼す るところに、眞の佛の慈悲がありがたく感受せられ るのである。 知識の方面から見れば馬鹿ものと言はれた至誠 さむでも、佛の慈悲を感受することは所謂(いわ ゆる)賢者よりも強かつたのである。 あるとき、同じお寺に法要があつて客僧が見えた。 至誠さむはお説教を聞いた後、座敷へ客僧を尋ね ていろいろ法義のことを聞いて居つたが、そこへ 寺の奥さむが来て、客僧に入浴の案内をなし、又 至誠さむに客僧の背を流して上げて下さいと頼む (ん)だ。 至誠さむは快く承諾して客僧の背を流した。 その時 至誠さむは始終 念佛して居つたが客僧 の方は一向 念佛が出ない。 至誠さむは絞つた 手拭(てぬぐい)でドスンと大きな客僧の背をたたい て、 「御佛壇は立派だが、阿彌陀様はござらぬわ い」と嘆息した。(たんそく:なげいてため息をつく・ 非常になげく) 辛辣(しんらつ)なる皮肉の言に 客僧も定めて自ら慚(はじい)つたことであらう。 |
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金言金行集 |
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2021年12月21日 |
御本山より賞與下附(しょうよかふ) 與市は明治十二年十月十八日附(づけ)で 第一回目の賞與を本山より下附されたので あつた、其(その)時の模様を聞くに突然門徒寺なる 彦根町明性寺より呼び寄せられ急ぎ同寺に参りし 所 住職より本日は貴殿(きでん)が平生(へいぜ い)御法義を大切に相續(そうぞく)せる奇篤(きと く)なる信者である事が本山にまで聞へ有難き思召 (おぼしめし)の賞状(しょうじょう)並(ならび)に 賞品が下附(かふ)されて來たからそれを傳達 (でんたつ)するのじやと聞かされたので與市は 驚き顔して 「 それは全く身に覺へなき事 必らずや 御人違ひで御座りませう、私は御法義相續の 出來ぬ事を平生(へいぜい)恥入(はじい)り常に あやまり、あやまり暮し居る奴で御座ります 」 と いと恐縮の体(てい)なりしかば住職は決して人違 ひでないとて賞状を讀み聞かせ 「 此(この)通り 椋田 與市(むくだよいち)と貴殿の名宛(なあて) じや程に心配せず喜んで頂きなさい 」 と申された、 與市 「 それがホントなら喜び所じや御座りまん 困つた事になります、私は明日から飯食ふ事が 出來ぬ様になります 」 と當惑(とうわく)の体で あつたから住職は不審に思ひそれは又 何故かと 尋ねられた、 與市 「 私は毎日毎日大根を賣つて は(うっては)米を買ふ(こう)て日暮して居るの です、一把(いちわ)の大根を束にするにも成るべく 大きなのを外に並べ小さなのを内に入れ全部大き な大根の束の様に人見を盗んで高く賣る工夫を して居るのです、それに今 本山から奇篤な同行 じや感心な信者じやなどと讃(ほ)められて見ると 最早(さっそう)や左様な事が出來なくなり私は 遂に飯が食へぬ様になつて困りますから其(その) 賞與(しょうよ)は何卒(なにとぞ)御本山へ御返しを 願ひます 」 と真劍(しんけん)になり叩頭(こうとう) して頼まれるから住職は與市の純眞な同行なる事 をいたく感じ種々(しゅじゅ)と説きすすめ無理無体 (むりむたい)に拜受させたのであつた、然(しか)し 與市はその賞與を持ち歸へり深く仏壇の奥に入れ 女房にも兄弟にも決して見せもせず話もせず始末 つて(しまって)置いたのであつた、所が四五年の 後ち誰れ云ふとなく噂が立ち遂に人々の知る所 となつたのである、其時の賞状(しょうじょう)は左 の通りである。 明性寺門徒 滋賀縣近江國坂田郡磯村 椋田與市 其許儀法義篤信之上より眞 俗に付奇特之行不少候趣に 付珠數一連賞與候事 明治十二年十月十八日[印] 本山 寺務所 妙好人 椋田與市さん 與市同行 喜びのあと より |
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