金言金行集 |
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2020年10月25日 |
母を呼ぶ聲 八十年程前 香樹院師、名古屋別院へ二季の 御差向けに参られ、さしもに廣(ひろ)き對面所に あふるるばかりの参詣の中にて 「御前がた、何(なん)と思ふて居(を)るか、 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛と申すは、 お母(かあ)お母といふことである」と申されたとて、 西愛知郡會所(にしあいちごほりかいしょ)の 是教(ぜきょう)といふ老人が涙ながらに 話されたのを教校へ通ふ頃、何心(なにごころ) なく聞いて居(ゐ)たのであるが、今日(こんにち) 思ひ出させて頂いて私は殊(こと)に有り難く 感ずるのである。 香樹院徳龍和上 安心百話 住田 智見 著 |
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金言金行集 |
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2020年10月27日 |
親の念力 私共(わたくしども)は親を忘れてゐた。 親に背いてゐた。 親に唾(つばき)してゐたる しぶとい我身 (わがみ)である。 親は少しも怒(いか)りたまはず、和顔愛語 (わげんあいご)(わがんあいご)にて親しみ 給(たま)ひ、 束の間も忘れ給はず近づき給うたのである。 此の廣大不思議の御念力が、彌陀の本願である。 阿母(おかあさん)といへぬのは、無上の不仕合 せである。 私(わたくし)は南無阿彌陀佛。 阿母(おかあさん)と稱へしめ給へる最大幸榮(さ いだいこうえい)を得たのである。 阿母(おかあさん)と呼ぶのは子の力で有(あろ) うか、丸々親の念力である。 知る時も知らぬ時も、近づく時も、背く時も、 平等の慈眼(じげん)を以(もっ)て育てられたる 力が、其儘(そのまま)阿母(おかあさん)の言葉と なつたのである。 住田 智見先生 安心百話より |
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